Introduction of A Discontinuous Difference Theory/New Platonic Synergy Theory
Platonic Sophience

Tuesday, September 26, 2006



http://platonicsophience.blogspot.com/2006/09/introduction-of-discontinuous.html
Introduction of A Discontinuous Difference Theory/New Platonic Synergy Theory
Mr. Kaisetsu or ODA watchers and I collaborated and created A Discontinuous Difference Theory, which I firmly believe is the overcome of postmodern thoughts and a breakthough of a new theory. Lately this theory has developed into New Platonic Synergy Theory.
The former has overcome Gilles Deleuze's philosophy of in terms of discontinuity. Deleuze's idea is based on the concept of differential, or continuous difference and we find it the very weaknes of his thought. Based on the idea of discontinuous difference, we firmly believe we created a breakthrough theory that will be able to change the paradigm of thoughts.
As for New Platonic Synergy Theory, it has developed from the former. There is a resonant synergy of discontinuous differnece in what we call the Media World in a Discontinuous Different Theory. This location or space is essentially creative. Its logic is what Mr. Daisetsu Suzuki call 'Sokuhi Logic.' I will expound these theories in details later.

posted by sophio at 4:37 AM
地平とは次元のことである
即非と言う『概念』を不連続的差異論、あるいは、Platonic Synergy理論は、メデイア界を説明する時に用いる。
これは、「Aであり、同時に、且、非Aである」状態を言う。

photo by 明日野甘頓

例えば、「今」の概念が「メデイア」であることを説明した。

2006.07.07 Friday
第3番目の発見⇒「今」「現存在」「瞬間」が不連続的差異論で定義したメデイアであること。

⇒1. そもそも、構造上、「今」「現存在」「瞬間」自体が、存在しない、と考えることが解決の糸口だと発見した。
⇒2. つまり、我々の生活世界で確実に存在しているのは、「過去」と「未来」だけである。
⇒3. 常に、「今」「現存在」「瞬間」は、不連続的差異論で定義された「メデイア」としての振る舞いを示している、と考えるべきだ。
⇒4. つまり、常に、「今」は「過去」と「未来」の同時的存在であり、不連続的差異論としては「虚数」で表現される性質の存在なのである。さらに、「過去」と「未来」は、「現在」という「虚数」によって『絶対的』に断絶しているのである。つまり、「過去」と「未来」は「実数」であり、その間に、「虚数」で在る『今』が挟まっているのである。
⇒5. 結局、「過去」と「未来」こそ、必ず存在する概念であり、「現在」とは、「過去」と「未来」の共振現象である。
⇒6. これを、もし、流行の空間的表現をすれば、勿論、これは比喩であるが、「常に現在は、過去と未来を結ぶ平面から垂直方向に向かう軸上に存在する。」と表現できる。
7. これまでのPlatonic Synergy理論の研究成果から説明すると、「過去」と「未来」こそが「イデア」「現象」であり、「現在』がメデイアである。


しかし、これは、イデア界において、「今」が存在しないと言う意味では無い。我々のカント的な直観は「今」の存在を肯定する。

また、漠然と、日常の生活に暮らす上で、「今」は、「今」であり、自然な用語として使用可能で在る。現実世界でも、「今」は確実に存在する。

これらは、次元の問題で在る。或いは、地平の問題で在る。立っている場所の問題で在る。
闇の世界とは何か? その二「絶対主義からの考察」(基礎編)
photo by 明日野甘頓


この分析は、長くなりそうである。
そこで、今回は、基礎的な分析に留まると思う。

まず「聖書」の「まず光ありき」である。
これは、世界、或いは、宇宙の始まりが「光」からであったと言う意味であろう。
「まず光があった。」という意味は、普通は、「闇の世界に一条の光が出現した」という意味と捉えられる。
全ての始まりが光からであった、と考えられる。
これは、Platonic Synergyの理論と深いところまで一致する考えであり、非常に注目するところだ。
しかし、闇との関係からすると、「光」の出現の前に「闇」があった、ことになる。
つまり、闇の方が、光よりも先に存在したことになる。
或いは、まず光が出現し、それと同時、或いは、事後に「闇」が出現したという意味だろうか。
どのように考えようと、ここで指し示されている「光」「闇」は、絶対的な「光」「闇」であり、「闇を含まない光」「光を含まない闇」の意味で在る。
このような「光」「闇」の概念を「絶対主義から考察された『闇』『光』」の概念と呼ぶことにする。
闇の世界とは何か? その一「相対主義からの考察」
闇とは、光の無い世界で在る。
しかし、その程度が問題になる。
相対的に光が少ない場合、闇となる。

photo by 明日野甘頓


太陽の黒点が良い例である。
太陽の黒点は、比較的低い温度の領域が黒く見えるとされている。
⇒参照
太陽黒点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


太陽黒点(たいようこくてん)とは、太陽表面を観測した時に黒い点を散らしたかのように見える部分のこと。単に黒点とも呼ぶ。実際にはこの部分も光を放っているが、周囲よりも弱い光なので黒く見える。

黒点が暗いのは、その温度が約4,000℃と普通の光球(太陽表面)温度(約6,000℃)に比べて低いためである。発生原因は太陽の磁場であると考えられているが、詳細には解明されていない。


つまり、相対主義的観点から「光」と「闇」を見る場合、これは、「比較的、光が強いか、弱いか」の問題となる。

相対主義的な立場で「光」と「闇」を論じることは、不連続的差異論、或いは、Platonic Synergy理論で言えば、「連続性」の観点から考察することである。つまり、連続的差異である。

⇒参照

個別的差異と類型的差異、さらに、その同一性


グラジュエーションとして、光と闇は連続的に並んで存在し、見る人間の認識の状態によって、光になったり、闇になったりするのである。



Platonic Synergy理論は終末論を越えることが可能
photo and creation by 明日野甘頓

2006.07.07 Friday
第3番目の発見⇒「今」「現存在」「瞬間」が不連続的差異論で定義したメデイアであること

によって、

◆⇒1. そもそも、構造上、「今」「現存在」「瞬間」自体が、存在しない、と考えることが解決の糸口だと発見した。
◆⇒2. つまり、我々の生活世界で確実に存在しているのは、「過去」と「未来」だけである。


ことの発見を示した。

これは、重要な提起である。

終末論は、現在から将来・未来が生まれるという過信から出てきている。しかし、世界構造が、「過去と未来」によって形成され、「過去」と「未来」のみが本来的存在であり、「現在」こそ、「空」であり、「虚数的存在」であるということを明確にすることで、我々は、終末論を越えることが可能だ。
過去と未来こそ、必ず存在するものであるからだ。
種類としての世界、質的世界においては、過去と未来は同時に存在している。現在のみが、特異点であり、虚数化しているのである。
これは、アインシュタインの特殊相対性理論の考え方を活用すると分かり易い。


特殊相対性理論
このような背景のもと、アインシュタインは、次の二つの仮定(公理)のみをもとに思考実験によって新しい理論を考え出した。

1. 力学法則はどの慣性系においても同じ形で成立する(相対性原理)。
2. 真空中の光の速さはどの慣性系から観測しても一定である(光速不変の原理)。


つまり、過去と未来は異なる慣性系に属しているが、構造は同じで在る。また、種類・質的差異の世界では、過去に見えたものは、未来においても同じように見えるのである。但し、現在という形式のみが、特異であり、世界形式が異なるのである。
或いは、必ず現在があれば、必ず「過去」と「未来」があるのである。或いは、過去は未来から直接的に生まれるのである。但し、過去と未来は不連続なのである。


このように、質的世界においては、現在から未来が生まれるのではなく、過去があれば必ず未来があるのであり、未来は過去が現在を飛び越えて生まれるのである。この意味で、現在から未来が生まれるという終末論の前提は完全に崩壊する。
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特筆すべきイデア論⇒PROTOMODERN SINGULAR COSMOSYNERGY⇒イデアと物質について
◆完全に唯物論的思考から抜け出した「頭」が必要なのである。唯物論は、近代文明の変調によって生まれた弊害の多い理論である。近代の初期、或いは、ルネッサンスへ、或いは、古代ギリシャへ、つまり、PROTOMODERNへ、突き進むべきである。by Kaisetsu


photo by Kaisetsu of ODA Watchers



★PROTOMODERN SINGULAR COSMOSYNERGY★NEW PLATONIC SYNERGY THEORY★
Thu, July 06, 2006 22:59:13
イデアと物質について:即自イデア、対自イデア、連続・同一性イデアhttp://ameblo.jp/renshi/entry-10014405443.html


(抜粋)

原光=原エネルギー=原強度と言える。しかしながら、これは、いくら強調しても強調し過ぎることはないのであるが、あくまで、イデア・シナジー態としての、イデア共振態としてのそれであり、精神と物質の二元論は発生してないということである。イデア一元論である。【ヌース理論への、私の根本的な疑問は、このイデア・シナジー態を素粒子と考えている点である。素粒子・量子とは、量子力学という唯物論的自然科学によって捉えられた物質の根源(元素・「アトム」)であるから、イデア・シナジー態を素粒子と考えるのは、カテゴリー・エラーだと考えられるのである。だから、ヌース理論は、イデア論と唯物論との折衷理論であり、欺瞞的な理論になっていると思うのである。同一のものを、一方では、イデアと説き、他方では、物質と説いているのであるから。また、NOOSとNOSも、イデアとしては、奇妙に思えるのである。半田氏は、NOOSを物質を創る力としているのであり、NOSをそれの知覚と考えているようだ。しかし、物質を創る力がNOOSならば、それは、イデア論ではなくて、唯物論ではないのか。これらが、私のヌース理論に対する疑問点である。中沢新一氏の「霊的唯物論」にとても似ているように思えるのである。「霊的唯物論」とは、ハイデガー哲学と同質・同類だと思う。それは、超越論的唯物論と呼べよう。】


p.s. もう一点、問題点をあげると、半田氏は、素粒子を潜在的イデアといい、原子を顕在的イデアと呼んでいる。不連続的差異論から言うと、潜在的イデアとは、絶対的差異・不連続的差異に当たり、素粒子はそうではないし、顕在的イデアは、差異共振態・差異シナジーのことであり、原子ではないのである。どうも、ヌース理論は、とんでもない勘違いをしているのではないだろうか。イデア即物質にしているのである。半田氏は、きわめて、鋭敏な洞察力をもった人物であるが、イデアを物質に直結させるという、途轍も無い誤謬を犯しているのではないだろうか。それは、まったく、真理を追究する精神性に反している。それは、虚偽である。邪悪である。思考の基本の基本を無視しているのである。】
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第3番目の発見⇒「今」「現存在」「瞬間」が不連続的差異論で定義したメデイアであること。
次のrenshi氏のコメントから次のことを発見した。

★PROTOMODERN SINGULAR COSMOSYNERGY★NEW PLATONIC SYNERGY THEORY★
Thu, July 06, 2006 11:22:29
オルテガの「生・理性」論とイデア論
テーマ:イデア論/プラトニズム
不連続的差異/イデア論の「叡智」性とは、オルテガの「生・理性」(原語はrazon vital)に似ていると思う。
http://homepage2.nifty.com/fuji-teivo/hyoron/none-category/today-orudiga.html

7p.s. オルテガの生成論は、不連続的差異/イデア論と重なるだろう。そう、後者は生成イデア論、生成差異イデア論でもある。引用しよう。


◆時間論の決定版は、やはり、フッサールの「内的時間意識の現象学」であると思っているが、「だから、どうなんだ?」と言う点で、非常に曖昧な部分を残している、と思っている。


photo and creation by 明日野甘頓

◆この点、

⇒1. そもそも、構造上、「今」「現存在」「瞬間」自体が、存在しない、と考えることが解決の糸口だと発見した。
⇒2. つまり、我々の生活世界で確実に存在しているのは、「過去」と「未来」だけである。
⇒3. 常に、「今」「現存在」「瞬間」は、不連続的差異論で定義された「メデイア」としての振る舞いを示している、と考えるべきだ。
⇒4. つまり、常に、「今」は「過去」と「未来」の同時的存在であり、不連続的差異論としては「虚数」で表現される性質の存在なのである。さらに、「過去」と「未来」は、「現在」という「虚数」によって『絶対的』に断絶しているのである。つまり、「過去」と「未来」は「実数」であり、その間に、「虚数」で在る『今』が挟まっているのである。
⇒5. 結局、「過去」と「未来」こそ、必ず存在する概念であり、「現在」とは、「過去」と「未来」の共振現象である。
⇒6. これを、もし、流行の空間的表現をすれば、勿論、これは比喩であるが、「常に現在は、過去と未来を結ぶ平面から垂直方向に向かう軸上に存在する。」と表現できる。
7. これまでのPlatonic Synergy理論の研究成果から説明すると、「過去」と「未来」こそが「イデア」「現象」であり、「現在』がメデイアである。
 この部分の参考資料
⇒2006.06.29 Thursday
私は誰?「加法による世界」と「原点」が「背景」であること。
2006.06.29 Thursday
私は誰?「乗法による世界」と「原点」が「特異点」であること

8. 不連続的差異論の「イデア」「メデイア」「現象」の三区分を、これに適用すると、「過去が現象界」であり、「現在がメデイア界」であり、「未来がイデア界」である。
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「粋」とは、まさに「人生のメデイア化」である。
photo by 明日野甘頓


九鬼 周造氏の主張を、そのまま飲み込んで、「『粋』の構造を「異性に対する「媚態」であり、江戸者の「意気地」であり、執着のない「諦め」である」とするなら、まさに、それは、不連続的差異論におけるメデイア界の構造で在る。

「いき」の構造 他二篇 岩波文庫
九鬼 周造 (著)


参照
メデイア界

2006.06.27 Tuesday
不連続的差異論のオリジナリテイーである「メデイアの定義」
http://main.platonicsynergy.org/?eid=122958
| 明日野甘頓 | 用語の定義 | 00:08 |

不連続的差異論は、差異の絶対的な不連続を主張する。
このため、Aと非Aとの境界が大きな問題となる。
この部分を、近代科学は、「0」(零)と考えてきた。
しかし、不連続的差異論は、「Aであり、且、同時に『非A」である」領域とオリジナリテイーを以って主張する立場である。
この「Aであり、且、同時に『非A」である」の総称を「メデイア界」と言うと、不連続的差異論の成立当初から定義している。


 まず、「男」と「女」の絶対的な峻別、絶対的な差異が前提となる。絶対的な差異の認識によって、「「媚態」、「意気地」、「諦め」」が生じるのである。
絶対的に異なることの認識から、「真似ること」「為ったつもりに浸る」行為が生まれる。所謂、志向性である。
また、絶対的に異なることを前提しての媚態であるから、当然、心底からは、自分は異性ではない、との「意気地」と「諦め」が出てくる。
この「意気地」と「諦め」は、ポジテイブとパッシブの差である、異なる二方向の交差であり、一直線上に並んだ、プラスとマイナスの極である。

⇒参照
2006.07.01 Saturday
「光」がイデアであることと、「dark sun」について

2006.06.29 Thursday
「加法世界」と「乗法世界」の歪み

2006.06.29 Thursday
私は誰?「乗法による世界」と「原点」が「特異点」であること
2006.06.29 Thursday
私は誰?「加法による世界」と「原点」が「背景」であること。




 つまり、「男」と「女」という、絶対的差異の両極を、何度も、行きつ戻りつする「状態」が、「粋」であることになる。この激しい「緊張状態」を、「価値ある形」としたのが江戸文化である。
 「男」は決して女の形態を繕うのでは無く、「精神的な媚態」を内包して、その表現が無意識に行為に出るのであり、「女」も同様に男の形態を繕うのでは無く、「精神的な異性への媚態」を内包して、その表現が無意識に行為に出るのである。

 これは、恰も、「赤」と「緑」の補色関係のように、「赤」を眺め続けて「緑」の残像を見、「緑」をジッと眺めて「赤」の残像を見るのと同じである。決して、両者が混じることは無いのである。混じってしまう、つまり、両者が「同一」になっては、「粋」という価値・文化は成立しない。

⇒参照

2006.06.19 Monday
Interreflexibility

2006.06.23 Friday
MediaとEnergyとInterreflexibilityの相関


このような「精神の振動」(Platonic Synergy)を持続することは、非常に大きなエネルギー、つまり、精神的緊張の保持を必要とする。逆に言えば、豊富なエネルギーの発散である。

さらに言及すれば、「媚態』を『演じている』自分は、演じていない自分とは異なる存在であり、それは「男」とも「女」とも異なる自分である「虚構」として存在し続けている、とも言える。
「赤」を眺めた後の残像の「緑」が、本当の「緑」では無いのと同じである。
 まさに、自分自身である「赤」をジット眺めて、その後に、白紙に映る残像の「緑」を見て昂揚し、それが消える前に、再度、「赤」を眺める繰り返しである。これこそ、「Aであり、且、同時に『非A」である」領域の存在であり、不連続的差異論の「メデイア状態」である。
 つまり、「粋な人生」とは、「人生のメディア化」と言える。

 また、実際には存在しない「緑」の『残像』に『自己投影』することで、虚構へと踏み入るのであり、「実像と虚像」の振動が激しいと、感覚的には「実像と虚像」の同時的共立の場であり、虚数的世界への「没入」でもある。

⇒参照

2006.01.11 Wednesday
雑誌「世界」2月号「大澤真幸氏の『政治的思想空間の現在』に注目する。」
イシス(闇)とオシリス(光)の極性思考
コメント再掲示

イシス(闇)とオシリス(光)の極性思考
http://main.platonicsynergy.org/?eid=133597#comments




photo by 明日野甘頓

コメント
もう一つは、「日神」「月神」の問題です。
| Kaisetsu of ODA | 2006/07/03 1:13 AM |
あと、もう二点、追加したいと思います。
まず、「白」と「黒」ですが、これは、「背景」であり、「特異点」のことです、ね。
イデアとは、「背景」であり、「特異点」のこととも言えます。
また、メデイア界として、「白であり、同時に、黒」である世界を想定できます。但し、次の考察から、この「光」に関してのみは、慎重な態度が必要だと思っています。
この「白」は、極論していけば、「絶対的な透明」であるからです。
また、「黒」は絶対的な不透明(絶対的断絶)であるからです。
「絶対的透明」と「絶対的不透明(絶対的断絶)」の同時的存在は、果たして可能でしょうか?
ここに、光の特別な地位が在るように思います。「光」は、それ自体はメデイア的振る舞いをするが、「光」の二つの差異(「透明」と「不透明」)の境界は「メデイア界」では無いのかも、しれません。「光」のみは、「境界」を持たないのかも、しれません。
| Kaisetsu of ODA | 2006/07/03 1:11 AM |
proto-modern cosmopolis様
コメント、ありがとうございます。
私も、これを書いた後、様々な古典の記述に思いを馳せました。聖書の「始めに光ありき」も、その一つです。
また、古事記も同じです。
また、自然現象としての、太陽の黒点なども興味のある事実です。
アインシュタインも、「光」の不思議な性質の解明のために、相対性理論を打ち出しています。
まず、「太陽」、「光」が、我々の存在の「原初」であることが重要だと思います。
思うに、おそらく、光こそが、万物の「創造主」であり、世界を開いた「主」であることを確認することが最も重要な作業だと感じています。
また、対極図は、まさに、その通りです。イデア界も、メデイア界も表現しています。
また、この図は、中国、朝鮮半島、日本を含む、大きな地域での共通の「哲学」でもあります。
ここにおいて、「白」「黒」のイデアこそが、最も基本的な哲学Formであることが示し得たことは、不連続的差異論の前進で在ると考えています。
| 明日野甘頓 | 2006/07/02 11:59 PM |
この一つの集大成であるような論考は、さまざまなことを想起させます。
 とまれ、重要なことは、イデア界のイデアが、即自的な極性をもっていることが判明した点だと思います。イデアには、ノエシス的な極性があるということでもいいと思います。とまれ、プラスとマイナスの即自的極性がイデア界にあることが明晰となり、これが、1/4回転で、メディア界のシナジー場で、対自的極性となると、明快に考えることができます。
 とまれ、そうすると、本当に、太極図は、最高に意味深長な図柄であると言えますね。それは、イデア界であると同時に、メディア界の図となります。
 また、神話的思考も、メディア界の極性を捉えていました。イシス(闇)とオシリス(光)の極性思考です。ただ、イデア界に即自的極性を考えていた古代に思考はあったのか、わかりません。ゾロアスター教では、光を闇に優先してしまいます。
 とまれ、この論考ですぐ想起したことは、シュタイナーの光と闇の二元論ないし対極性です。彼は、青空の青は、闇が光に入ってくるときの色であり、夕焼けの赤は、光が闇に入ってくるときの色であると、いかにも神秘的なことを述べています。細かいことはともあれ、光(白)と闇(黒)の色彩のイデア対極性が成立します。そして、これは、双対性です。だから、黒白のイデア双対性が成立するということになります。これは、太極図に書き込まれています。
 さて、ロレンスの”dark sun”のことですが、このような解釈ができるのかと思い、参考にしたいと思います。とまれ、私の主観では、真夏の太陽を見ると、目が眩むせいもありますが、黒い、ないし、暗い印象をもちます。これは、補色の関係かもしれません。ゲーテの色彩論にありますように。でも、そう考えると、dark sunがよくわかります。白い太陽と黒い太陽の対極相補性です。オシリスとイシスです。これは、実は、天皇(日御子)と天照大神の関係です。天照大神は、本当は、陰だと思います。月(月読み、かぐや姫)だと思います。ということは、黒い太陽は、月と言ってもいいのではと思います。ということは、さらに言えば、太陽が月を照らすだけでなく、月も太陽をなんらかの形で、「照らして」いるのではないかと思います。月の黒い光があるのではと思います。
 あと、興味をもつのは、虹の七色や、音のオクターブや、三原色や、正多角形等の問題です。あるいは、等分割の問題です。これが、わかると、宇宙の秘密が一挙に明らかになると思います。私なりに考えてみます。
| proto-modern cosmopolis | 2006/07/02 3:02 PM |
闇の速度について
下書中

(参考)
⇒TOWARDS PROTOMODERN COSMOPOLIS プロトモダン・コスモポリスへ向けて ★NEW PLATONIC SYNERGY THEORY★

2006年07月02日 18時58分02秒
差異から同一性への変換について:不連続性(闇)と連続性(光)の即非論理のメディア界


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